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サスティナビリティを考えてみる

サスティナビリティと聞いて、なんのことだかさっぱりわからなかったんだけど、仕事で繰り返し耳にする機会があった。それは、「Sustainability:持続可能性」ということらしい。
社会の中の組織の役割や人とのかかわりの中で、様々な資源・知恵・エネルギー・などとの関係に持続性がないと、将来における文明の維持は不可能だ。関連文書を見るとその持続可能性は、極めて難しいことがわかる。現代の人間社会はサスティナブルではない。。。

 

ああ、だから原発問題があるんだね、あれは解決しないんだ、などと短絡的に思ってしまう。あれは持続性乏しいよ、と直感できてしまう。だって技術が未完成だし、運転士がいいかげんだもん。続くわけないよ。そのうち決定的なダメージを伴う。あれ、このまえ爆発がそうじゃなかったっけ?とひとりごちる。

 

いや、どうもそれだけではなく、この社会のサステナビリティの試練について、既に、過去に、未来を暗示する問題が、社会を賑わしていたんです。
それが瀬戸内海に浮かぶ自然豊かな島での「豊島事件」だ。このたびこのサイトに関わる機会を得、改めて深く考えさせられることになった。初めて知ったと言ってよい。

 

事件は香川県の 産業廃棄物 処理場建設許可から 始まった。90年代末に起こった香川県の小さな島での産業廃棄物不法投棄事件。ここに各地から、悪徳業者と行政の無謬性よって大量に産廃が持ち込まれ、今なおその処理は続いている。一致団結した島の住民たちと手弁当の弁護士たち。対するは香川県。公害調停は36回に及び、2000年、謝罪と処理へ向けての最終合意を勝ち取る。しかし、勝利とはいえ、産廃処理に伴う多額の経費確保、産廃処理、自然の回復へは道は長い。高度経済成長期のつけを、この小さな島は一方的に払わされているのだろうか。いったん土中へ染み出たダイオキシンなどの公害物質を、海中へ流れ出る有毒物質らを取り除くことなど、放射能の扱いと等しく途方も無いことであろうことは、原発事故のあった今こそ実感できることであるし、文明に継続性の危うさを既に指し示していると思える。
このようなことの教訓を僕らは何度でも繰り返し実感しなくてはいけないし、語り継がなくてはいけないのだろう。

 

サステイナビリティというものの実現は、可能性として存在する。それには社会全体の良心に頼らざるを得ないのだが、私たち自身と、コミュニティの在り方を模索しつつ、企業は利益型の循環系を確保しなければならない。恐ろしくハードルの高い技術と智慧を、文明社会は求められていると思う。

 

参考*http://www.teshima-school.jp/

 

 

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