トップページへ

blog
blog

ブログ

おかしな二本の映画について

「テルマエ・ロマエ」っていう映画を見てきました。
親子で笑えたなかなか楽しい映画でした。不要な屁理屈のシーンもあるように感じましたが、シチュエーションが常軌を逸しているのでやむを得ないかもしれません。これはまさにシチュエーションがもたらすギャップとシンクロの物語なのだと思います。シチュエーションのアイデアが秀逸なのです。
ギャップが可笑しさをもたらし、シンクロで感情移入できるのでした。屁理屈はマンガなら適当に済まして最終回まで引っ張ってゆけばよいのですが、映画は二時間で大団円させなくてはいけないので少々無理が生じても致し方ないと思います。

 

もう一本「アーティスト」という映画を見ました。
ミシェル・アザナヴィシウス監督。こちらは前者とは何の関係も無い、映画への愛に満ちたオマージュ。無声映画から「トーキー」へと時代が推移する中、翻弄されるスターの栄光と挫折と再生。ストーリーはオーソドックスな展開で先が読めなくもありませんでしたが、落とし所を心得た「うるっ」くる流れでよい時間をすごせました。破綻無い映画らしいトリック、無声映画における音楽・サウンドトラックの取り扱いなどよく考えられています。

 

 

この関係の無い二本の映画で思ったことは、その映画らしいトリックに「技あり」と思わせられたことです。一風変わった「おかしな」工夫がされているのです。
「テルマエ・ロマエ」では古代ローマ人が日本社会のもっとも生活感漂う場所に佇むだけでリアリティを持って笑わずにはいられない。ウソをほんとのように見せる。そのために対比として冒頭に日本人による徹底的な古代ローマ空間を実現しています。

「アーティスト」では無声映画の空気感・デザインを徹底的にコピーして、モダンな映画館を無声映画館へと変貌させ、映画における「音」の意味を再認識させられるのです。

なにもこのまったく違う映画の共通点を無理やり見つけようというのではないのですが、ドラマチックな現代劇とは一味違った工夫が映画の魅力になっているなぁと感じたのです。その工夫をたとえ作り物とわかっていても騙される快感、というようなものでしょうか。もちろん脚本は練りこまなければいけない。そこへリアリティを与える音楽と美術の勝利です。

 

あとから「テルマエ・ロマエ」の原作を読んでみると、アイデアのほとんどが凝縮されており、映画向きと思わせるものがあります。それも美術の完成度あってのことです。

「アーティスト」における美術はその時代性を完璧に反映させ、これはこの時代を生きた人の「限りなく実話に近い寓話」なのだと思い込むに至りました。そして綿々と現在のショービジネスにつながっている。ビジネスと言うと人間味がありませんが、生きる糧としてのライフワークです。二人が「タップ」を踏むシーンはいつまでも終わらないで!と願いました。

 

3Dなんか必要ないんですよ。映画のトリックに騙され続けたい、と思える二本でした。

 

category: 一喜一憂

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です